F-14はアメリカ海軍の艦上戦闘機。F-4 ファントム IIの後継機としてグラマン社が開発した。愛称は「雄猫」の意味のトムキャット(Tomcat)。
アメリカ海軍の保有・運用するF-4の後継機[1]として、グラマン社が開発した第4世代ジェット戦闘機に分類される艦上戦闘機である。1機あたりのコストは3,800万ドルで、総計712機が製造された。可変翼を有し、長射程のAIM-54フェニックスを運用できるのが特徴である。
初飛行は1970年で、部隊配備は1973年より進められた。アメリカ海軍のほか、イラン空軍でも採用された。
F/A-18E/F戦闘攻撃機への機種転換を進めた結果、2006年9月22日にVF-31トムキャッターズの解隊をもって、アメリカ海軍のF-14は全機が完全退役した[2]。唯一のアメリカ以外の採用国となったイラン空軍では、現在でも現役で運用されていると見られる。
開発の経緯
F6Dミサイリアー構想
F-14の開発は1950年代までさかのぼる。当時アメリカ海軍は東側の対艦攻撃機を要撃する機体を必要としていた。これに対して、1957年、ダグラス社は戦闘機XF6D-1ミサイリアー(Missileer)の開発を行っていた。F6Dは滞空時間約10時間で先進的な火器管制システム(AN/AWG-9)のもとで、ベンディックス社の開発するはAAM-N-10イーグル空対空ミサイル(航行速度マッハ4、射程203km)を搭載するものだったが、イーグルミサイル以外の武装を持たない上に機動力も汎用性も乏しく廃案となった。しかし、イーグルミサイルは火器管制装置AN/AWG-9ともども開発が続けられ、AAM-N-11、さらにはAIM-54となり、双方ともにF-111Bを経てF-14で採用されることになった。
なお、空軍は同時期にXF-108・YF-12要撃機を開発しており、これらに用いられたAIM-47ファルコンミサイルと、ヒューズAN/ASG-18 火器管制レーダーの技術も流用されている。
TFXプログラムとF-111Bの頓挫
1961年、ジョン・F・ケネディの政権下で国防長官に就任したロバート・S・マクナマラは、当時海軍と空軍から要望されていた新型戦闘機を可変後退翼を持つ共通のプラットフォームTFX(Tactical Fighter Experimental)として開発する計画を立てた。マクナマラ自身はこの分野の知識に疎く、実際に空軍から出ていた要望は戦闘機というよりも長距離爆撃機に近く、他方で海軍からの要望は対艦ミサイルを搭載した航空機を対艦ミサイル射程外で迎撃するための長距離航行可能で且つ至近距離での空中戦を想定した戦闘機であり、当初からその計画には無理があった。
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1961年10月1日に入札各社は各案を提示。ゼネラル・ダイナミクス社が落札した。ゼネラル・ダイナミクス社はグラマン社と提携し、グラマン社はランディング・ギアと本体後方部、および海軍向けのアレンジTFX-N(後F-111B)のデザインを担当した。
グラマン社はかつて、廃案となった可変翼機XF10F-1ジャガーの設計を行った経験があり、その可変翼の技術をF-111で採用した。海軍向けF-111Bのプロトタイプは1965年の5月に初飛行を行ったが、重量過多、航行速度不足、加えてランディングギアの位置が前方に偏り過ぎていたために艦上着陸の際の挙動が非常に不安定で危険となることなど明らかに海軍の要望を満たしておらず、海軍からの強い反対にあい採用は見送られた。
VFXプログラムの立ち上げとグラマン案の採用
しかし当時海軍で採用されていたF-4ファントムおよびF-8クルーセイダーは性能的に時代遅れとなりつつあり、ソビエト連邦の新型機などの脅威に対応不可能と考えられていたことから、海軍はTFXプログラムからVFX(Carrier-based Fighter Experimental)プログラムを、F-111B不採用を決定してすぐに立ち上げた。
1967年10月に各社はこの要望に応札、グラマン社とマクドネル・ダグラス社が残った。グラマン社の案は管制システム、ミサイル、エンジンをF-111Bからそのまま転用したものだった。翌年マクドネル・ダグラス社はモデル225を、グラマン社はモデル303を提示。最終的にグラマン社が落札した。
F-14の開発
YF-14AF-14は当初、F-111同様垂直尾翼が1枚だったが、海軍がそれに異議を唱えて垂直尾翼を2枚要求し、結果、1969年3月に最終案が採択。開発を急ぎたい海軍とグラマン社は、試作機を作って性能評価を行い、その結果を踏まえて量産型を制式採用/発注、といった通常の開発方法の手順を踏まず、いきなり量産型の生産に入り、スローペースで生産する先行量産型でテストを行うクック・クレイギー計画を採用し、まず12機の先行量産型を製造した。そして、先行量産型の各機に受け持ちの性能評価項目を振り分け、迅速に開発を行うこととした。
当初初飛行は1971年1月を予定していたが前倒しされ、1970年の12月21日にチーフ・テスト・パイロットのロバート・スマイズとプロジェクト・テスト・パイロットのウィリアム・ミラーによって敢行された。この飛行は悪天候と視界不良のために短時間で切り上げられ、9日後に再度飛行テストが行われたが、着陸の際にランディングギアの油圧系統が故障。予備のシステムも作動せず、試作機は墜落。パイロットは間一髪で射出されて軽傷ですんだ。この時製作中の12号機を1X号機として試験に割り当てたため、プロトタイプは都合13機である。
この設計ミスはすぐに修正され1971年5月24日に2機目の試作機が飛行を行った。この試験機は低速度での動作確認、可変翼、および銃器の動作確認に割り当てられた。3機目は搭載重量を増やしての飛行、4、5、6機目はムグ岬の海軍基地でAWG-9/AIM-54の搭載試験を行った。このうち5機目は1973年6月20日スパローミサイルの発射試験で自機に命中するという珍しい事故で墜落している。この事故の原因は、スパローは発射後に急上昇して高度を稼ぐようになっているが、しかしこの試験では下へ打ち出す力が弱かったため機体下面にスパローが激突したことである。7機目にはエンジンの換装が行われF401が採用された。8機目は生産ラインのデータ確認に使用され、9機目、11機目はレーダーとその他のシステム確認に割り当てられた。11機目は地上の標的に対してバルカン砲での攻撃テストにも使用されている。10機目は海軍の試験センターで空母での発着を想定した試験に使用された。
海軍による最初の試験飛行は1971年12月16日に行われ、大変な好評を博している。搭乗員からは着艦の際の挙動の制御が難しいため、ビースト(獣)と呼ばれていた。翌1972年の6月15日に最初のカタパルトを使用した発艦試験がUSSフォレスタル(Forrestal)で行われ、6月28日に初の着艦試験が同空母上で行われた。この10号機はのち着艦に失敗し、パイロットは死亡している。オペレーターは同乗していなかった。
運用開始と配備数の圧縮
空母から飛び立ったF-14F-14はアメリカ軍がベトナム戦争より全面撤退した1973年より部隊への配備が開始され、初期導入機が老朽化しつつあったF-4と代替し始めた。しかしF-14の取得費用およびメンテナンスなどにかかる諸費用が群を抜いて高いことが知られるようになると、野党の政治家をはじめとする各方面より強い非難を受けた。
実際に民主党のハートキー(Hartke)とビンガム(Bingham)両上院議員から採用を非難するレポートが提出されるなどし、その結果結局当初配備予定だった722機のF-14は313機まで大幅に圧縮された。
その後も政治家やマスコミなどによる非難は止まず、更なる圧縮が計画されたが、当時の海軍作戦部長エルモ・R・ザムワルト・Jr(Elmo R. Zumwalt Jr.)によって擁護され、免れることになった[3]
基本構造
横田基地で展示されるF-14
左後方よりF-14は艦隊防空戦闘機であり、艦隊防空戦闘機として使用するために能力も防空に特化したものとなっている。よって、格闘戦を重視したF-15やF/A-18とは異なる設計思想の元に開発された戦闘機である[4]。
一番の特徴としてはAIM-54 フェニックス空対空ミサイルと、それを使用するための強力なレーダー火器管制装置が挙げられる。操縦機構の付いていない後席にはF-4を踏襲して、RIOと呼ばれる専門のレーダー員が搭乗した。RIOは操縦資格を持っていない事がほとんどである[5]。
主翼にエルロンはついておらずスポイラーが装備されており、水平尾翼の差動と合わせてロール機動を行う。 これは可変翼であるが故の特性であるが可変翼以外にも、航空自衛隊の可変翼ではないT-2およびF-1もエルロンによるロールではなくスポイラーによるロールである事にも注目されたい。
艦隊防空に特化した機体ではあるが、平たい胴体の発生する揚力が加わる事で実質的な翼面荷重は小さく、可変後退翼の後退角の自動制御で旋回時には主翼を前進させて旋回半径を小さくする効果により、意外にも空中戦能力は低くはない。同時期に開発されたF-15との模擬空戦においてはたびたび勝利し、2機のF-15を相手に1機で勝利したこともあると言われている[6]。後述する通り実戦においても、MiG-23やSu-22相手に勝利している。
その一方、大型な機体のために空力抵抗が大きく、TF-30の推力不足により推力重量比も小さく高G旋回を維持することができず、神経質なエンジンであることに起因するスロットル操作の制限は、空中戦においてはマイナス要因である[7]。
エンジン
F-14は胴体下面に、左右に間隔をあけて2基のターボファンエンジンを搭載している。双発機でエンジンの間隔をあけると、一方に起こった致命的な故障(爆発、火災、タービンブレードの破損など)がもう一方に波及しにくいという利点があるものの、1発停止時には機体軸線と生きているエンジンとの距離が大きくなるため操縦はより困難になる。また、F-14では左右のエンジン間の隙間をミサイルの搭載場所として利用している。
F-14Aはプラット&ホイットニー社製TF30-P-412を搭載している。このエンジンはF-111Bで採用されたTF30-P-12の改良型でF-111Dにも採用されているが、非常に大きな欠陥を抱えている。出力は12,350lbで力不足なことに加えてインテーク付近での気流の乱れに異常なほど敏感で、簡単にコンプレッサーストールを起こす。F-14以外も含むこのエンジンを採用した機体は過去に40もの被害を出しており、その被害総額は10億ドルを越える。F-14のこのエンジンを採用したA型は当初最初の67機のみ製造し、後ゼネラル・エレクトリック社製のF401-PW-400に換装したB型を400機製造予定だった。
このF401-PW-400エンジンは安定していることに加えて高出力、低燃費で、空軍が後に開発したF100と同じくJTF22を設計ベースとしていた。しかし、このエンジンは開発中に技術的トラブルに合い、加えて開発の経緯で記載の通りコストに起因した問題からF-14本体のプログラム自体が非難にあっていて、更に予算を追加しなければならなくなるために道半ばでプロジェクトは消滅し、このF-14Bの製造は開発段階で頓挫することとなった。
ちなみにこのエンジンを積んだ2機目の試験機158260(1機目はプロトタイプの7号機)はほとんど完成していたが、プログラムの消滅に伴って試験飛行を行う前にエンジンをTF30へ戻されている。
ミサイル
AIM-54をフル装備したF-14
空母甲板上でのF-14とAIM-9F-14の搭載するAIM-54フェニックスはアクティブレーダーホーミング長距離空対空ミサイルで、射程は100kmを超える。このミサイルはソ連のスタンドオフミサイル Kh-22 及び発射母機である Tu-22/22M爆撃機を空母機動艦隊のはるか遠方で迎撃する目的で開発され、現在でもアメリカ軍が使用する空対空ミサイルとして最も射程が長いものとなっている。しかし、このミサイルは大型で機動性が悪く、また高価でもあり、実戦使用例は湾岸戦争時の1度きりである。この時は最大射程ギリギリで発射したため、命中はしていない。イラン・イラク戦争で使用例があるといわれているが、戦果については諸説存在し、はっきりとしたことはわからない。
6発装備では着艦時には燃料がゼロでも最大着陸重量を超えるため、2発の空中投棄が必要となる。フェニックスは47万ドル余りと高価なため、無駄を出さないよう実際搭載する場合には4発までとなっている[8]とされる。 なお、フェニックスは2004年9月30日にアメリカ海軍から引退した。
フェニックスの他には、中距離空対空ミサイルであるAIM-7、短距離空対空ミサイルのAIM-9も搭載できる。これらの空対空ミサイル、あるいは爆弾類は、胴体下面、左右のエンジン間に4ヶ所、主翼根元のグローブに左右1ヶ所ずつ、計6ヶ所のハードポイントに搭載する。
F-14の第一の目的が艦隊防空能力であり、対地攻撃能力については、付加するに十分すぎる性能を持っていたが、積極的に付加されなかった。このため、特にアメリカの空母戦闘群に対艦ミサイルで攻撃を仕掛けてくる可能性のあった唯一の国家ソ連が崩壊してからというもの、F-14はその存在意義が大きくぐらついた。また、搭載兵器もF-14Aは現在主流の中距離空対空ミサイルAIM-120 AMRAAMに未対応である。実弾発射試験には参加したが、F-14に残された短い寿命の中での運用は必要無いと判断された。そのため、短・中距離での交戦では旧型のAIM-7を使用する必要がある。